[所在地]広島県神石郡神石高原町時安

 発見は江戸時代と言われている。稼行の時期は地質調査所発行の「府中図幅地質説明書」によれば明治26年から稼行し28年には休山した。その後大正10年から再び稼行し13年には休山した。終戦後廃坑になったと伝えられている。銅,砒素を採掘した鉱山である。記録によれば飯場や市場も作られ大規模というほどではないが,ある程度の規模で採掘していた様子がうかがわれる。中生層花崗斑岩中の中〜高温の熱水鉱脈鉱床と思われる。鉱床は銅と砒素を主としており,脈幅は通常20cm程度で肥大していたところで1.5mあったようだ。延長は180mとされている。深さは90m掘り下げられている。別名光洋鉱山「こうようこうざん」とも呼ばれている。鉱山は小さな集落のはずれの町道沿いにある。鉱山跡にはこの鉱山の説明看板が立てられており,看板の下をよく見るとズリになっていることが分かる。鉱山のすぐ横に地主さんの家があり,立入の許可をいただき山の上の方から看板方向に向けて降りて行ってみたが,山の上の方は植林帯になっており鉱山跡を思わせるような場所は見当たらなかった。坑口は町道沿いから10数m入った所にあったようだが,坑口があったと思われる場所はすでに岩が崩れ落ちて,隙間からわずかに水が流れ出ているだけであった。従って鉱山の面影が残っているのは看板付近のみで,その辺りの小さなズリからわずかに孔雀石が見られた程度であった。資料によれば硫砒鉄鉱を主とし,黄銅鉱,黄鉄鉱,方鉛鉱を伴っていたそうだ。銅と砒素を産出していたためか鉱害対策のため全て埋め戻されてしまった可能性がある。一部には埋め戻されたような形跡も残っていた。砒素の精製は鉱山の川向うの少し離れた場所に窯があったようだ。